体に関する神の取り扱い

久しぶりに投稿します。

最近、体のことに関しての神の取り扱いがあります。               今、私の体は大きな病ではないすが三重苦(ちょっと大げさかもしれません)。 それは、歯、お腹、鼻です。 今まで祈ってたりしたものの、あまり真剣に癒しを求めなかったこともありますが、 なかなか癒されない状態が続いてます。            今ちょうど、W・ニーの霊の人という本の3巻の体のところを読み進めているのですが、 そのところから体と病について学びました。 神の目的は人の全存在(霊・魂・体)を救うことですが、癒しの前に何故 このような状態になっているのか神に問い求めることを教えられました。                                     そんな時、ある夜中に歯の激痛で目が覚め、一晩中寝れないなか、 神に求めました。 それは私の罪と古き人に対する神の取り扱いであることを悟り、ようやく受け入れる ことが出来たのです。 このような者を愛するがゆえに下したムチという取り扱いなのです。次の御ことばは真実です。

(ヘブル12:10、11)なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。                                              すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

今、些細なことにおいてもその罪と古き人に目を見張り、主が求めておられる ことを注意深く過ごすことができるようになったのも感謝です。               今ではお腹の痛みは何の罪が取り扱われているのか分かり、歯は何のことで取り扱われているか主の光によって照らされ、少しずつですが癒され始めています。 まだまだ完全な癒しはありませんが、主が取り扱われるゆえに感謝です。                     もし、それさえも無くなったら、それは悲劇でしょう。 ヨブの初めのころのようであってはならないなあと思います。

 

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油塗り

最近、妻に教えてもらったiphoneアプリが超便利。                           all-inメモというアプリですが、カテゴリー色別に写真やボイスレコーダーも添付できるので、気になった聖書の箇所を写真で撮ってコメントしたり、日々気づいたこと、主に教えられたことをメモして残したり・・・。とても重宝してます。 記憶力の乏しく、ずぼらな私には最適です。

さて、日々の気づきは大事と思っているのですが、なかなか慌しい日常は気づかずに外側のことで振り回されるのが実際の日常ではないでしょうか。                           最近の日記にも書いたように、小事に忠実をモットーに少しずつ日頃の日常に気にしてし始めると、不思議なことに慌しさが少なくなりました。”ながら”をやめて、確実に一歩一歩日常のことや仕事をこなしていくと失敗も少なくなり、気づくことが多くなりそうです。                 (まだまだ、失敗は多いのですが・・・訓練ですね)

ところで、クリスチャンは信じたときから内側に聖霊が宿りましたが(1コリント6:19)、その聖霊が内側から気づきを与えて、真理を教えてくれるという御言葉があります。(1ヨハネ2:27)       先の日記にも書いたように人の内側には霊があります。その人の霊という機能に神の霊即ち聖霊が御心や真理を教えるようです。その御言葉にあるように油は聖霊ご自身であり、注ぎの油は油塗りとも訳されるようです。                                          人の内側に油が塗られた状態というのはどんなでしょう。やはりそれは相当に注意しなければ気がつかないのではないでしょうか。ですから、日常の慌しさの中では御心はほとんどかき消されてしまうと思います。

(第1ヨハネ2:27)                                               あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼のがすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

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たましいについて

最近、ツイッターで魂のことに関してつぶやいたので、それをまとめて表示してみました。     まず、魂とは心のなかで、思い・意思・感情の3つの部分から成ります。人は外側に体があって、その中に魂、そしてさらにその奥には霊があり、人は3つの要素からなります。(1テサロニケ5:23) 魂は生まれつきのその人自身であり、一番自我の強いところのようです。

☆貧しい者は幸いですと始まる山上の垂訓は十字架を経過した者に対してです。           マタイ16:24 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

☆私たちの魂の命は制限されており利己的。しかし、神の命は無制限でその中で生きる魂は自由です。だから、マタイ16:24にある通り、自分(魂)を捨てることによって神の命の中で真の自由の中で生きるのです。

☆魂を捨てた結果                                                 3ヨハネ2節 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

☆魂を捨てるとは、自己を捨て降ろすこと。それによって真に人を愛することが出来ます。イエスは人を愛するゆえに十字架でただ一度ご自身を捨ててくれました。これが人の愛ではなく、神の愛です。クリスチャンに望んでいることは、この自己を捨てるという神の愛です。これは日々です。だから、日々十字架ですね。

☆本当に神の愛は何と奥深いでしょうか。でも、自己を否むとは大変な作業ですね。自己愛は本当の愛ではありません。また、愛するという自己満足もです。あらゆる自己から発する教会の奉仕さえも本当ではないでしょう。

☆十字架の愛が実を結んだように、自己を捨てるクリスチャンの愛も真の実を結ぶでしょう。主はぶどうの木、私たちはその枝です。

☆ルカ6章は自己を捨てる一辺倒…。でも、天の報いは大きいです。

このヘブル書の御言葉どおり、魂的な活動や行動、礼拝など吟味されます。            ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

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ながら族

この言葉はちょっと死語かも・・・。

会社でお昼にお弁当を食べながら思ったことですが、ついつい自分のデスクでお昼食べ”ながら”PCで興味のあるネットをよく見るのが習慣。                             ”ながら”で食べるとうまく食べれないし、ネットも何だかふわーっと適当に見てしまうのです。  元来、私は二つのこと同時に事を行うことが苦手なので、”ながら”はやっぱり極力避けるべきかなと思ったのです。そして、”ながら”をやめてしっかりとご飯だけ集中して食べると結構満足感が味わえました。弁当の中身を観察したりして色々発見するのです。これもまた充実した時間です。 そして、ネットも本来見たいものをしっかりと見ると頭に入っていいかもしれませんね。

今、”三丁目の夕日”シリーズの新しい映画が公開されおり人気のようですが、64年生まれのわたくしとしては興味津々なのですが、過去の2つのシリーズは見ました。                 この映画がなぜ今人気なのでしょう?                                   今はネットやスマホなど超便利になったものの、とても忙しく空虚で無機質を感じて、本来の人としての生活、人と人とのやり取りや井戸端会議、円卓を囲んでの食事などの一日を背景に喜怒哀楽にあふれている日常の生活に懐かしさとあこがれが”ながら族”の現代にあるのかもしれません。

さて、ある意味、日常のどうでもよいことやさして重要視していない事柄など、おなざりにし勝ちですが、前日記の”日常生活からキリストの勝利”にも少し触れましたが、最近エクレシアの交わりの中で、その些細な事柄さえ超重要で、おおげさに思えるかもしれませんが、聖書で言う永遠に繋がることを教えられました。                                           あのステパノは家々の教会で給食の給仕係を任ぜられましたが、後々ペテロをも上回るような大演説者として立てられました。(使徒行伝6章参照)                           ステパノは給仕係として小事に忠実でしっかりと全うして神に用いられたのではないでしょうか。それはこの世では迫害受けましたが、天では大きな報いとなったでしょう。

イエスの公生涯までの30年間も神と人とに愛されたとあるとおり、両親に仕え、ごく日常の小事に忠実だったのではないかと想像するのです。(聖書に詳細はありませんが・・・)            ”ながら族”でもなく、三丁目の夕日的な人でもなく、本来の人としてのお手本はイエスだと思います。そして、ステパノも同様に小事に忠実さは我々人としての魂(自己)におおいに関係があるのではないでしょうか。

ルカ2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神ととに愛された

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日常生活からキリストの勝利へ

昨日日曜日の午前中、Skypeで兄弟姉妹との交わりから学んだことを記したいと思います。

日常生活において古い人は十字架に付けられたことを、信じ受け入れるだけでなく、些細な日常の事柄(歯を磨くことさえ!)から実践することがキリストの勝利を味わう秘けつであることを交わりました。

エペソ4:22から古い人を脱ぎ捨てるとありますが、それは人が意思をもって否むことであり、ピリピ2:12においても自分の救いの達成と、クリスチャンが自ら能動的に行うことを神は求めていることを読み取れます。
古い人というのは主に私たちの思いに働きます。そこにはサタンが働く土壌でもあり、ある思いを入れ込み、また奪い取るます。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:27)

この御言葉のように、そのサタンたちの働きに対して、自ら否むことを神は願っています。人は全て自分の思いは自分から発していると勘違いしやすいですが、そうではありません。イエスがペテロに対して下がれサタンと戒めたように(マタイ16:23)、サタンの意思が人の思いにやってきます。決してサタンなぞ特殊で特別な場所や現象ではなく、全ての人(クリスチャンも含めて)に対して働いているのです。それを放置しては神のみこころなど添える生活ができるはずがありません。

まず、自我自己(古い人)を降ろし、即ち十字架に<既に>キリストとともに付けられたという事実を信じ受け入れ、敵(サタン悪霊など)が投げかけてくる意思(思い)を退け、神の意思を取ることです。クリスチャンは得てして能動的というと肉的と捉えやすいですが、決してそうではありません。ただ、ボーッと神が自分を動かすのを待ち続けたり、逆に神のみこころとすり替え自己の思いで活動的になることほどおろかなことはありません。神の意思とはわかりにくいですが、祈り求めることから始めて、あとは経験により分かりかけてくると思います。

ですから、生活の些細なことから、しっかりと意識を持って、意思を表明し、一歩踏み出すことではないかと思います。イエス様が小事に忠実であることを褒め、大きなことを任せましたが(ルカ19:17)、このことも大いに関係があるかもしれません。

ある兄弟の証ですが、何十年にも渡って、過去の苦しみが幾度となく思いにやってきて悩んでいたのですが、ある時その思いは自分ではない、悪霊の仕業であることがハッキリと分かり、それに対してNo!と抵抗したら、スーっとその思いが取れたそうです。それ以来、その兄弟の生活は少しずつ改善されたそうです。                                           最後にこの御言葉を。

ピリピ2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、                  事を行なわせてくださるのです。

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肉の行い

肉には善を行うことが出来るので、神のみこころと勘違いしやすいです。
クリスチャンたちの良い行いさえも、肉から出ているのは主は忌み嫌うのではないでしょうか。

ガラテヤ: 3: 3 御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

神のみこころは人の思いとはやはり違うのでしょう。
善いこと、奉仕、ボランティア、親切などなど、これらで肉から出たものは 全て神のみこころではないと思います。
肉によいものは全くありません。 特に自分好みの働きにおいてもです。                ローマ書はこのことについてよく説明してますね。

ローマ8: 6、8
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
肉にある者は神を喜ばせることができません。

では、肉から出ているのかを見極めるにはどうしたらよいのでしょう。
やはり、自己を降ろし(即ち十字架)、神に直接祈るしかないと思います。 特に自己を降ろすというのは人にとって難しいことですが、このことも神は喜ばれます。                      ただし、自己を降ろすことは決して受動的になることではありません。神は人に自由意志を与えられました。その意思を発動して、能動的に神の意思を選択して歩むことなのでしょう。
あとは祈り歩むなかでの経験によって見極めるしかないかと。

もうひとつ忘れてならないのは、底知れぬ深い穴に落とされた敵(サタン、悪霊ども)の 認識も必要かと思います。彼らは肉に乗じて私たちを誘惑し、引きずり込もうとして いるからです。
このことにおいても、その敵に対して、抵抗し立ち向かわなければなりませんね。 こちらもやはり私たちの強い意志が非常に重要ですね。
(エペソ 6:11)

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悪からの救い

主の祈りのなかに、”私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください”(マタイ6:13)という箇所があります。                                                                                                                                     救いというと、イエスの十字架の血によって救われる、罪の贖いによる救いがあります。いわゆる恵みの福音です。

”私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。”(エペソ1:7)                       ”もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。”(ローマ10:9)

しかし、一方でイエスを信じて救われるとは別に、この主の祈りにある”悪からの救い”を願うのは、明らかに私たちクリスチャンの祈りですね。聖書のなかにいたるところにクリスチャンに対する、さらなる救いが記されている箇所が結構あります。 もちろん、この御言葉のようにイエスを信じることによって既に救われているのですが、神の御思いにおいて更なる”救い”を願っているのではないでしょうか。それは主の祈りにあるような”悪からの救い”と思うのです。

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。”(ピリピ2:12)

”試み”はヨブ記にあるように、神はあえてサタンの試みを許し、ヨブは非常な苦しみがもたらされ試みに会いました。ヨブはいわゆる火の精錬を受け練られたのだと思います。(1ペテロ1:7)  私の場合、この主の祈りの”試み”はいつもこのヨブ記を連想してしまいます。このヨブ記からも読み取れるように、”悪からの救い”はこの世の支配者サタンからの救いではないかと思います。

”悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。”   (エペソ6:11)

私たち、クリスチャンは目を覚まして、悪に対して立ち向かい抵抗すべきです。この御言葉から積極的な態度が求められていますね。しかし、その悪は人に対してではなく、背後で働く悪霊どもです。


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